原発放水作戦の裏側

「何で、父ちゃんなの?」任務恨まず、士気は旺盛

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.11

陸海空自衛隊の消防車によって結成された東京電力福島第1原発への放水冷却隊。と、言っても彼らは決して消防のプロではない。

陸自の消防車ドライバーに関して言えば、昨今の予算減、人員削減の余波により、たまたまこの部署に異動になって任務に就いている者が多い。

田浦副司令官を「中隊長」と呼んだ隊員も、やはり機甲科(戦車)から職種転換した末に消防隊に入っていた。

田浦正人

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田浦 正人
1961年12月2日 –
生誕地 長崎県
所属組織 Flag of JSDF.svg 陸上自衛隊
軍歴 1984 –
最終階級 陸将補
 

田浦 正人(たうら まさと、1961年(昭和36年)12月2日 – )は、日本長崎県出身の陸上自衛官。1佐までの職種は機甲科米国ケンタッキー州陸軍機甲学校及び同国海兵隊指揮幕僚課程修了。

略歴

12月7日:中央即応集団副司令官(国際担当)[1]
イラク復興支援隊 2次要員出国へ
東北方面隊主力に90名
イラクのサマワで地元住民との調整や広報活動にあたるイラク復興業務支援隊の交代要員として近く派遣される第2次要員(隊長・ 田浦正人1佐以下約90名東北方主力)の出国行事が6月25日、防衛庁で行われた。A棟講堂において・田浦隊長が出国を報告。先崎一陸幕長は訓辞で「イラ クの新しい国づくりが活発化される中で多国籍軍と連絡調整し淡々と業務を進め新たな基盤をつくるよう」述べた。引き続き、儀儀仗広場で行われた見送りでは 石破茂防衛庁長官をはじめ高級幹部、防衛庁職員、家族ら多数が参列する中、派遣部隊が行進(写真)、田浦隊長が挨拶し、盛大な拍手とともに防衛庁を後にし た。また、事前に開かれた家族との昼食会で先崎陸幕長は派遣隊員一人ひとりと固い握手を交わし激励した。

当然、戦車に乗り続けていたかっただろう。しかし、戦車の数も減り続けているのでかなわない。やむを得ず消防隊に行き場を求めたことを考えれば、今回の任務を「不幸な巡り合わせ」と捉えてもおかしくないが、士気は旺盛だった。

他の面々も、皆、思いもよらない派遣だった。そもそも自衛隊の消防隊とは、基地や駐屯地内だけで活動する人たちで、外に出ることは、近傍火災などの事態以外はあまり想定していない。

それが、今回、最も危険な所に突入する役目となったのだ。

「何で、父ちゃんなの?」

ある陸曹は泣きじゃくる5歳の息子に言った。

「父ちゃん、やりたいんだ。今まで役立たずだったので、やらせてくれ。たまには、いい格好をさせてくれよ」

息子は赤ちゃんがえりして、おねしょをするようになってしまったが、父ちゃんは派遣メンバーになることを強く望んでやってきた。

普段、「イケメン」と評判の20代もメンバーに入っていた。上官が、なぜ手をあげたのか問うと、独身だから家族持ちの先輩ではなく、自分が行くほうがいいのだと答える。

「お前、平成生まれの顔しながら、思いっきり昭和してるなあ」

予想外の「今どきの若い者」の真剣なまなざしに、こみ上げるものを抑え、笑うしかなかった。

10キロもある防護服を全身にまとい、真冬でも、長靴を脱ぐと汗が滝のように流れ出るほど過酷な条件下での放水作業。

暑さと重さで身体が思うように動かない。いざ原子炉を目の前にして、見えない放射線の恐怖と高ぶる気持ちで、涙を流している者もいた。

空自の消防隊も、本来、スクランブル(緊急発進)する戦闘機を、無事を祈りながら見送る立場だ。心配そうに送り出される側になるとは考えたこともなかった。しかし、誰もが任務を恨むことはなく、口をそろえた。

「今まで自衛隊で飯を食べてきたのは、この時のため。長い自衛官生活、一度くらいはお役に立ちたいんです!」

「自分は被曝2世」…1人原発へ「無理はせんけん。させんけん」

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.12

 自衛隊消防隊による原発への放水作業が始まったが、水量は決して満足なものではなかった。そこで3月18日、東京消防庁ハイパーレスキュー隊が投入された。

ところが、準備に手間取り放水ができない。

「消防隊は下がれ! 自衛隊が出ろ!」 <<<作戦計画がずさん>>>

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https://i0.wp.com/www.kantei.go.jp/jp/kan/actions/201105/__icsFiles/afieldfile/2011/05/17/17gentai1_1.jpg

平成23年5月17日

原子力災害対策本部

菅総理は総理大臣官邸で、第15回となる原子力災害対策本部会議を開催しました。

政府東電対策本部

政府東電対策本部

 東日本大震災で首相官邸は、地震・津波被害と東京電力福島第1原発事故という
二つの危機への対応を同時並行で迫られた。しかし、首相菅直人は原発問題に没頭し、
被災者対策は後手に回った。前官房長官仙谷由人の副長官起用など態勢強化を図ったが、 発生1カ月を迎えた今も初動の遅れの影響は残ったままだ。(敬称略)◇怒鳴る
「何でこんなことになるんだ」「説明してみろ」。原発事故発生翌日の3月12日未明。
官邸の首相執務室に菅の大声が何度も響いた。 福島第1原発で冷却機能が失われるという深刻な事態に菅は動揺し、首相補佐官や秘書官らを 怒鳴りつけていた。菅を落ち着かせるため、菅一人を残し、全員がいったん執務室から離れた。 この後、菅は「現場を見に行きたい」と福島第1原発を自ら訪問することを決め、同日朝に 自衛隊ヘリで現地に入った。 帰京後の同日午後、1号機で爆発が起きた。詳しい事情がなかなか伝わらないことに菅はじれていた。 「多分、水素爆発だと思います」と話す原子力安全委員長の班目春樹に対し、菅は「何言っている。 しっかり調べろ」と声を荒らげた。 3月15日早朝には東電本社に乗り込んで「撤退などあり得ない。覚悟を決めてほしい」と発した。 声は部屋の外に響き、閉め出された記者の耳にも入った。その後は、菅が周囲に怒鳴り散らす 場面は減ったという。 「首相は官邸を離れるべきではなかった」。菅の福島原発訪問にはこんな批判がある。 視察が東電の事故処理を遅らせたとの見方もある。だが、菅は同29日の参院予算委員会で、 現地責任者を早く知ることができたとし、「その後の経緯を考えると、極めて有効だった」と反論した。 第1原発所長の吉田昌郎に信頼感を抱いた菅は、官邸からしばしば吉田に直接電話して 指示を出すようになった。 政府は東電側と緊密に連携を取ろうと、東電本社に事故対策統合連絡本部(本部長・菅)を設置し、 首相補佐官細野豪志らが出入りしている。それでも菅は現場の声を聞かないと気が済まないようで、 政府内には指示の混乱を懸念する声もある。 菅の早期原発視察は弊害も指摘され、官邸関係者は「首相が前面に立って動く印象を与え、 官僚が指示待ちになった」と話す。菅の性格をめぐっては、かねて「関心がある話にどんどん はまり込む」(政府筋)との見方がある。二つの危機への同時対応が必要な今回の局面でもそれが表れ、 被災者対応は後回しになったと言える。◇会議は踊る
大震災後、対策本部や会議の設置が相次いだ。参院議長西岡武夫は復興計画をつくる「復興構想会議」に関し 「幾つ会議をつくれば気が済むんだ。会議が踊っている」と自ら指導力を示さない菅を批判した。 官房長官枝野幸男は「省庁間調整が必要で、本部や会議をつくることはむしろ効率を高める」としているが、 政府内にも「整理は必要」との声がある。そして菅は20もの対策本部を作った .当初は被災者支援の司令塔がはっきりしない状態が続き、各府省の縦割りもあって、食料や燃料など 緊急物資の搬送は遅れた。このため、菅は震災発生6日後の17日、各府省に人脈を持つ仙谷を 官房副長官として官邸に呼び戻し、被災者対策の調整を委ねた。 仙谷が官邸入りした段階で「被災者支援はゼロからやり直し」(仙谷周辺)の状態。対策を練るため、 官邸に東北地方の大地図を取り寄せたのも仙谷だった。 仙谷主導で各府省の事務次官を集めた会議が22日から始まり、被災者支援の指揮系統はひとまず整った。 しかし、初動の遅れは響き、政府関係者は「被災地の要望と実際に届く物資には、まだかなり ずれがある」と指摘している.

焦りのあまり政府の対策本部から怒号が飛ぶ。カン総理?作業の邪魔?>しかし、防衛省幹部は、今、彼らを下げて自衛隊が代わることによる効果や、かかる時間を考慮すると、即断は慎むべきと考えた。

それに、せっかく来てくれた彼らの誇りを傷つけることは避けたい。決断は現場に預けるように懇願した。

じりじりと1時間が過ぎたその時だった。ハイパーレスキューの消防車から水が噴き出した。

「やった!」

自衛隊とハイパーレスキュー隊員は、涙ながらに固い握手を交わした。

彼らが去った後も、自衛隊消防隊の活動は続き、むしろ、厳しい要請が向けられるようになった。

午前の放水を終え、原発から20キロ離れたJヴィレッジに、やっと戻ったとき、再度出動を求められたことがあった。

放水にあたる一連の作業は手間がかかる。まず消防車にタングステンシートを張り詰めるなどの準備を行い、Jヴィレッジから原発までは、地震による悪路のため1時間かかる。

2時間の放水をし、戻ってから全員が放射線量の計測をする全行程で、約8時間は見込まなければならない。<<このあいだにメルトダウン、作戦そのものが意味ない>>その頃には皆、疲労困憊していた。

「まだ、線量も計ってないのに、行けねーよ!」 <<<<<線量調査すらできていない水素ガスの調査も?>

若い隊員は思わず叫び、周囲の者も騒ぎ始めた。

その時、その場の指揮官が立ち上がったと思うと、防護服を着込んで出ていった。1人原発に向かったのだ。

自ら4号機の前で線量を計り、安全を確認した後に帰ってきたトップの姿を見て、もう誰にも迷いはなかった。

「オレたちも行こう」

自ら示した命懸けの姿に納得したのだ。

「指揮官は男らしいな、きっと九州男児だな」

海自隊員が何気なく言った言葉に、1人の陸自隊員はハッとした。かつて、「自分は長崎出身の被曝2世だ」と教えてくれたことを思い出したのだ。誰より放射能の恐ろしさを知っているはずだ。

そんな思いが伝わったのだろうか、指揮官は独り言のように言った。

「大丈夫だ。無理はせんけん。させんけん」

数日前まで名前も知らなかった隊員たちが、心を一つにした瞬間だった。

無口なる勇士の活動、世に知られない「努力や功績」

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.13

 「原発に戦車が出動!」

3月20日、メディアは大々的に報じた。がれき除去のため、白羽の矢が立ったのだ。

また、海上自衛隊の多用途支援艦に曳航されて、米軍貸与のバージ船も放水の準備をすることになった。

そのころ、実際の放水作業は「キリン」と呼ばれる大型アームなどの導入により、自衛隊の消防隊については「待機」の状態が続いていた。そんな時、テレビの画面にふと目をやると、

「感動をありがとう」

ハイパーレスキュー隊が取り上げられている。数時間ではあったが、共に支え合い涙した仲間が注目されることはうれしい。しかし、自衛隊の待機は、その後も続いていたのだ。

「オレたち、もう終わってるのかなあ」

何人かがうな垂れた。「待機」はニュースにはならない。しかし、隊員たちは、日に何度も起きる余震の度に緊急体制に入り、防護服に身を包み、被曝覚悟で車両に乗り込んでいた。

戦車やバージ船も、結果的に、役に立たなかった印象もあるが、他に策なき段になったときは満を持して活用すべく、猛訓練をしていた。

最後に頼る手段が、そこに在ることは現場の安心感にも繋がり、意味は大きい。

「ほとんど神業だな!」

74式戦車の瓦礫除去訓練は、いつの間にか飛躍的進歩を遂げていた。

https://i2.wp.com/pitaro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/03/20/p20110320999.jpg
74式戦車

防護服を着て、ハッチを閉めての作業は、サウナどころではない暑さと視界不良だ。それでも潜望鏡を駆使し、車長と操縦手の絶妙の呼吸で、見事に瓦礫を脇に寄せる。 <カメラも搭載していない?、戦車内部は高濃度空気汚染?フィルターもついていない?>

NBC偵察車

https://i0.wp.com/www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq38g21.jpghttps://i0.wp.com/island.geocities.jp/torakyojin88/image/hpp827.jpg

陸上自衛隊のNBC(核・生物・化学)兵器対処用の装輪装甲車(NBC偵察車両)が投入されていない。

陸上自衛隊の、核・化学兵器対処用の装備である化学防護車と、生物兵器対処用の装備である生物偵察車を、一本化したNBC兵器対処用の後継車両。
核・生物・化学(NBC)兵器による広域にわたる汚染地域等の状況を検知・識別機材などにより偵察を行い、必要な情報を収集する事で早期に状況を解明し、適切な対応を取る事で影響・被害を抑える事を目的に開発される。
開発は2005年度に開始、2009年度に完了。

きょうにも福島原発で米無人機で内部撮影へ

https://i2.wp.com/pds.exblog.jp/pds/1/201002/09/18/b0168218_1153319.jpg

東日本大震災で、高い放射線が検出されている東京電力福島第1原発の原子炉建屋内部を撮影するため、米軍が17日にも無人偵察機グローバルホークを飛行させることが分かった。日本政府関係者が16日明らかにした。
無人機であるため乗員が被ばくする危険性がない。同機は高性能カメラと赤外線センサーを備えており、破損箇所など建屋内の状況が把握できれば対策づくりに役立つ。
日本政府が対応に手間取り有効な対策を打ち出せずにいるため、米軍は自衛隊が保有していない無人機の投入が必要と判断したとみられる。

https://i2.wp.com/www.nisa.meti.go.jp/genshiryoku/img/7_fukushima2/pic_101024-2.jpgGoogle Earthの衛星写真/航空写真

    福島県原子力災害対策センター 掲載日 : 2011年3月15日
 投稿者 : キックスさん  カテゴリ : 公的施設  場所 : 日本/福島県/双葉郡大熊町
 住所 : 日本, 福島県双葉郡大熊町下野上大野476  (グーグルAPIによる住所)
 座標 : 37.40677951764977 , 140.9810069590237 (緯度・経度)
オフサイトセンター(原子力災害対策センター)はJCCの臨界事故を教訓として設置され、緊急の原子力災害に対する対策拠点となる施設。
ここに国、自治体、事業者、専門家が集まり原子力災害合同対策会議を開き対策を練る。
原子力施設から20km以内に設置され、全国に20ヶ所ある。このセンターの対象施設は福島第1原子力発電所、福島第2原子力発電所http://www.nisa.meti.go.jp/genshiryoku/bousai/ofus…

自らの功績を披瀝することを好まない組織ゆえ、こうした努力や功績は、なかなか世に知られない。3号炉爆発に伴い、オフサイトセンターが県庁に移転することになった3月15日のこと。大移動の殿(しんがり)を務めた中央即応集団(CRF)の、もう1 人の副司令官(当時)である今浦勇紀陸将補を乗せた車両が双葉町にさしかかると、全員が避難して誰もないはずの集落に、70代くらいだろうか、夫婦らしき 姿を確認した。 <<<<避難確認もずさん>>>

聞けば、避難バスに乗り遅れ、自家用車のガソリンもないという。

車両は人と荷物が満載されていたが、「荷物は捨てよう」と、大半をその場に置き、2人を救って避難所まで送り届けていたことが、夫婦からの礼状で明らかになった。 <<<<<

「海上保安庁には『海猿』がいるが、自衛隊は『言わざる』ばかりだ」

誰かが言った。この無口な勇士の活動は、その後も続いた。

https://i1.wp.com/www.asagumo-news.com/news/hp0406/P-DN-040513-01B.jpghttps://i0.wp.com/www2.222.co.jp/11member/semilist/img/0507.jpghttps://i2.wp.com/www2.asahi.com/special/jieitai/images/TKY200409050152.jpg

今浦勇紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/04/22 09:08 UTC 版)

今浦 勇紀
1958年11月28日 –
生誕地 山口県
所属組織 Flag of JSDF.svg 陸上自衛隊
軍歴 1981 –
最終階級 陸将補
 

略歴

在任間、第2次イラク復興業務支援群長としてサマワに派遣
(同時期の派遣隊長は田浦正人
  • 2005年(平成17年)3月:陸上幕僚監部装備部輸送課長(末代)
  • 2006年(平成18年)8月1日:統合幕僚監部総務部総務課長
  • 2007年(平成19年)12月:同首席後方補給官付後方補給官
  • 2009年(平成21年)7月21日:陸将補昇任、中央即応集団副司令官[2]
  • 2011年(平成23年)4月27日:第8師団副師団長兼北熊本駐屯地司令

大手英米紙のサマワ自衛隊報道 3

(報告:常岡千恵子)

『ニューヨーク・タイムズ』(米) 2004年10月24日 −微笑みが、 
 より効果的な 防御とするオランダ軍

  車両から降りたオランダ軍兵士たちは、銃を下に向け、ヘルメッ
トも被らず、徒歩で夜間パトロールを始めた。地元の少年たちが、
「ハロー、ミスター」と声をかけ、途中まで彼らについてきた。

  その後、通りを走行中のオランダ軍の車両から、兵士たちが通行
人に「サラーム・アレイクム」と挨拶すると、イラク人の大人も子供
も手を振り返した。

  オランダ軍は、お巡りさんとソーシャル・ワーカーを兼ねたよう
な役柄を、"ダッチ・アプローチ"でこなす。
  1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ内戦のPKOでは無力だ
ったオランダ軍だが、そのソフトな手法をアフガニスタンで磨き、
イラクで発揮中だ。

  彼らは、装甲車のかわりに天蓋のない車両を用い、ほとんど何も
被らず、地元住民との交流を図る。ミラーサングラスも御法度だ。
  司令官のキース・マシッジセン中佐は、「人々の支持と同意が一種
の防御になる。人々と接していれば、彼らに話しかけやすいし、彼
らも情報をくれる。彼らが何を考えているのか、何を心配している
のかもわかる」と語った。

  イラクで最も安全な地のひとつであるサマワに駐留するオランダ
軍と、人々の決死の抵抗に遭遇している米軍とは比較できない。
  とはいえ、現実には米軍はオランダ軍と比べられてしまう。

  米軍はサマワには駐留していないが、彼らのコンボイがバグダッ
トとクウェートを結ぶ幹線道路を往復し、日常的にサマワを通過す
る。
  米軍のコンボイは、攻撃目標にされることを恐れ、人身事故を起
こしても猛スピードで突っ走る。しかも、車間距離を確保するため
に、装甲車に乗った米軍兵士が周囲の運転手に銃を向ける。

  サマワに1350人の兵士を駐留させているオランダ軍は、ムサ
ンナ州の治安維持を担当し、過去14ヵ月の駐留期間中、2人の死
者を出した。
  これらの犠牲を受け、オランダ政府はアプローチの変更を検討し
たが、最終的には、地元当局や市民がオランダ軍を支持していると
判断し、ソフト・アプローチは装甲車にこもるより安全な手法だと
結論づけた。

  23歳のオランダ軍中尉は、「ダッチ・アプローチを破棄しなけれ
ばならないなら、撤退したほうがいいだろう」と述べた。
  27人の小隊を率いる彼は、予算2万5千ドル分のコミュニティ・
プロジェクトを監督している。パトロール中に、道路やフェンスの
修復など、必要と感じた事業を上司に報告し、相談して決める。
(注:前出の『フィナンシャル・タイムズ』の記事は、自衛隊はム
サンナ州での事業予算を明かさないと報じたが、オランダ軍のほう
が透明性が高いことがわかる)

  30分ぐらいの徒歩の夜間パトロールでは、オランダ軍兵士たち
はイラク人の通訳を伴って、地元住民に語りかけた。

  地元住民のフセイン・カメルは、「彼らは敬意を払ってくれる。ア
メリカ人よりずっといい」と語った。
  アサド・アブダル・ラザクは、オランダ軍が銃を所持してこの地
にやってきたことを「挑発的」だと述べたが、大半のイラク人はオラ
ンダ軍を肯定的に捉えている。

  夜間パトロールを率いるオランダ軍軍曹は、「敬意を払わなければ
ならない。ここは、彼らの国だ。われわれは客人にすぎない」と語っ
た。

  サマワの警察署長や住民は、米軍のコンボイはイラク人の尊厳に
対する最大の侮辱だと言う。
  オランダ軍やイラク人によれば、米軍のコンボイは、民間車両や
通行人に無差別衝突し、イラク人を障害物としかみなしていない。
  数週間前には、米軍のコンボイが民間車両に衝突し、イラク人の
死者2人、負傷者3人を出したが、コンボイはそのまま走り続けた。

  マシッジセン中佐は、「もちろん、アメリカ人はオランダ人とは違
ったタイプの人種だ。われわれには、われわれの文化がある。だが、
アメリカ人も、もっと地元民を尊重かつ理解したやり方ができるは
ずだ」と述べた。

。。。。。。。。。。。。。
  さらに、サマワ発ではないが、再び『ロサンゼルス・タイムズ』
が札幌発で、自衛隊サマワ派遣に関する記事を掲載した。

  第2次支援群群長の今浦勇紀1佐が、8月の半分は宿営地を出ら
れなかった、9月にはもっと出なくなった、と語っているのが興味
深い。

  この記事も、日本の大手メディアがなかなか報じないことを伝え
ているので、ついでに要点をご紹介しちゃおう。

。。。。。。。。。。。。
『ロサンゼルス・タイムズ』(米) 2004年10月25日 −展開によって
 海外 に "ショー・ザ・フラッグ"できた日本 

https://i1.wp.com/www.sbbit.jp/bit/img/1304060401.jpg

  今浦勇紀1佐とその部隊は、軍事行為を自衛に制限した戦後憲法
を乗り越えようとする、日本の努力の最前線のシンボルかつ兵士と
して、イラクに展開した。

  130人の歩兵を擁する550人の自衛隊派遣部隊は、14万人
もの米軍兵士が駐留するイラクでは、ほとんど目立たない。治安維
持活動の法的根拠もなく、オランダ軍に守ってもらっている。

   日本の兵士たちの多くは、一人も傷つくことなく、一人のイラク
人を傷つけることもなく、軍隊の海外遠征で日の丸を示すという、
主たる目的を達成したと語る。

  小泉首相は、ほとんど国民の議論なしに、自衛隊イラク派遣延長
のシグナルを出している。
  ブッシュ政権にとっては嬉しいニュースである。公然とブッシュ
再選を希望した小泉首相は、来年3月のオランダ軍撤退後に自衛隊
の派遣部隊の規模を拡大させるとも報じられている。

  一方、小泉首相は、日本国民が、自衛隊がイラク進駐軍として戦
闘を行うことを望んでいないことも、感じ取っている。

  というわけで、イラクが危険になればなるほど、隊員は用心深く
なる。

  最近帰国した、人好きのする45歳の今浦1佐は、札幌の駐屯地
で、「平穏だった6月、7月は多くの事業を行って、地元民に受け入
れられました。イラク人は、日本のような大工業国が、彼らの都市
を再建してくれると期待して、われわれに好意を抱いたのだと思い
ます。彼らは、アメリカに敗れた共通の経験を持つ、とも言ってい
ました」と語った。

  だが、8月には外国軍への攻撃が増し、今浦の部隊は厳重に防御
された宿営地の奥に退却した。
  今浦は、コンテナの中にうずくまる隊員の写真を見せながら、「8
月の半分は宿営地を出られませんでした」と述べた。
  今浦たちを継いだ第3次支援群は、もっと出なくなったという。

  「パトロールに出るのは危険だが、パトロールに出ないのも危険で
す。地元の人々は、日本人が一生懸命働いていないと感じ始めるよ
うになりました」。
 「われわれには自衛能力がありますし、もっと活発にパトロールに
出るべきでしょう。少なくとも昼間には」。

  中国の軍拡と、北朝鮮の核武装計画に直面した小泉首相は、現在
日本の防衛政策を書き換えている最中だ。最近、首相の私的諮問機
関が、海外において積極的に安全保障における役割を担うべきだと
進言した。
  日本政府の中には、自衛隊のイラク展開を、ホワイトハウスに恩
を着せるための安い方便だと見る向きもある。もちろん、流血の惨
事にならなければ、の話だが。

  今浦1佐は、「ええ、犠牲者が出ると覚悟していました。出発前に
は、隊員たちに、私は運のいい男だ、きっと生還させる、と言いま
した。しかし、実は犠牲者が出ると思っていました。われわれは、
とてもとても、幸運だったのです」と述べた。

原発所長は涙ポロポロ…自衛隊幹部「最後は我々が必ず」

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.16

 福島第1原発対処をめぐって、陸上自衛隊隊員の間では、ちょっとしたモメ事が起きた。

「ダメです班長!」

通常、消防車は3人で乗り込むが、いざ突っ込むことになったとき、被曝量を最小限にするために2人で突入することになったのだ。

「オレが行く」という班長に、あとの若い2人が語気を強めて言った。

「独身者の自分たちが行きます。何かあったら奥さんに合わせる顔がありません!」

新婚の班長に対し、初めて意見具申した。

「独身は将来があるんだから行くな」

そう家族持ちが言えば、「家族持ちこそ、守るべき人がいるんだから行っちゃいけない」と反論する。そんなやり取りが繰り返された。

そのうちに、「もう希望をとるのはやめてください。『行け』と言ってください」と多くの隊員が言い出した。

海上自衛隊では「年寄りが行こう。若い連中は未来がある」と、40歳過ぎが集合した。 

実は、1991年の4月、海自の掃海部隊がペルシャ湾に派遣され、これが自衛隊初の海外での活動となったが、その際、危険な機雷の見張り任務を進んで請け負ったのは、当時40代以上のベテランたちだった。「年寄りに任せろ」は、その時のセリフだ。

あれから20年、当時の「若い連中」が自称「年寄り」になった今、歴史は繰り返されている。

しかし、海自らしく、洋上での出来事ならともかく、まさか原発に突っ込んでいくことになるとは、想像だにしなかっただろうが…。

震災3日後に爆発事故が起きたことは、確かにショックだった。しかし、その後、自衛隊幹部は、現場責任者である東京電力の所長を訪ねている。

年頭のご挨拶
(平成23年1月4日掲載)

新年、あけましておめでとうございます。福島第一原子力発電所、所長の吉田です。
平成23年の年頭にあたり、一言ご挨拶申し上げます。昨年も、地域の皆さまをはじめ多くの方々に支えられ、発電所を安全に運営することが出来ました
昨年の10月には、3号機において、当社初となるプルサーマルによる営業運転を開始させていただきました。・・・・・・ (全文はこちら

着任のご挨拶
(平成22年7月9日掲載)

このたび、所長に就任しました「吉田 昌郎」(よしだ まさお)と申します。所長という大任を担うことになりましたが、肩肘を張らず、自然体で臨みたいと思います。
前任の小森に引き続き、よろしくお願いいたします。福島第一での勤務は、3年ぶり4回目となります。福島第二と合わせまして、これまで13年間をこの浜通りで過ごさせていただきました。まさに、気心の知 れた仲間と一緒に仕事ができることを大変うれしく思っています。 ・・・・・・ (全文はこちら

福島第一原子力発電所所長吉田昌郎 東京工業大学大学院機械物理工学専攻

<<メルトダウンのトレーニングはやっているのか?>>

福島第1原発5、6号機の地下に水 建屋亀裂で流入?福島第1原発の事故で、冷温停止で安定しているとみられてきた5、6号機の建屋地下部分に、大量の水がたまっていることが分かった。大地震で建屋に亀裂が 生じ、地下水が染みこんでいる可能性がある。放射性物質による汚染は小さいが、地下には重要な配電施設があり、東京電力は対応に苦慮している。

5、6号機は震災当時は定期検査中で、地震や津波の影響も小さく、震災10日後には冷却機能も回復した。

震災当日に6号機にいた作業員は「タービン建屋の内壁の一部にひびが入っていた」と証言しており、亀裂部分から地下水が流入している可能性がある。

先月22日に現地視察した独立総合研究所の青山繁晴社長によると、現地で指揮を執る同原発の吉田昌郎所長は「一番心配なのは5、6号機だ。もともとわき水が多い。ほっておくと電源設備が浸水で止まってしまう」と述べたという。

(中日新聞)

福島第1原発の現場責任者は、吉田昌郎・執行役員発電所長である。その陣頭指揮は光っていたようだ。「吉田所長は勇敢で現実的だった」と政府関係 者は言う。「しかし、本店を経由してしか現地に連絡できなかった。だから12日朝、菅直人総理がヘリで現地に飛び『ベントしろ』と言った。吉田所長の背中 を押しに行ったんだ」(政府関係者)。

はたして12日午後、ベントが行われたものの、格納容器内で発生した水素が建屋に漏れ、水素爆発が起こった。14日には3号機でも水素爆発が起 き、安定的だった2号機でも炉心の水位が下がり、燃料棒が露出して空炊きという非常に危険な事態となった。水を入れる必要があった。

冒頭の「全員撤退」という話が飛び込んできたのは、そのときである。政府側はあわてた。

政府側が現地に連絡すると、吉田所長らが懸命に注水作業をしているところだった。そして、「水が入った」と言っているのに東電はいっこうに発表しない。

「とにかく、本店と現地に温度差があった。そもそも予備電源が切れたときの想定がなくて驚愕した。最初から自衛隊でも警察でも使えと言っていたのに、本店はあまりにも悠長だった」と、政府関係者は言う。

世界が震撼!原発ショック 悠長な初動が呼んだ危機的事態 国主導で進む東電解体への序章|Close-Up Enterprise|ダイヤモンド・オンライン

事故原発“ボイコット”寸前…所長ブチ切れ「やってられねぇ!」

2011.04.14


東京の事故対策統合本部とのテレビ会議が開かれる福島第1原発の免震重要棟(東京電力提供)【拡大】

収束への見通しがつかない東京電力福島第1原発で、水素爆発や汚染水漏れよりも重大な事態が起きていた。その勇敢さから「フクシマ50」と称賛さ れた現場の作業員が、事故対策統合本部が強引に指示した1号機への窒素注入を「危険だ」と猛反発。ボイコット寸前だったというのだ。『週刊文春』の最新号 が伝えたもので、原発の状態は決死の作業員に支えられているだけに事は深刻だ。

同誌によると“反乱”の一部始終はこんな具合だ。

「もう、やってられねぇ!」

声の主は第1原発の吉田昌郎所長。5日、現地の免震重要棟にある会議室と、東電本社に設置された事故対策統合本部を結んだテレビ会議中だった。

この前日、テレビ会議で吉田所長は原子炉へ窒素注入を実施するのか質問した。東電幹部は「いち早く1号機に実施しなければならない」と、準備を開始するよう指示。これに対し、吉田所長は「予想もつかないことをやることは大きなリスクだ」と事故後初めて声を荒らげた。

そして5日。吉田所長は抗議の意味も込めたのか、サングラス姿で会議に臨んだ。前日に続き、本部が窒素注入開始への説得に入ると、「危険なところへスタッ フを行かせられない」「それでも窒素封入(注入)をやれというのなら、俺たちはこの免震棟から一歩も出ない!」と怒りを爆発させたという。

1979年に東電入りした吉田所長は、入社直後に第1原発2号機の建設にかかわった。本社で原子力設備部長などを歴任したが、社歴の半分以上は福島で生活 した。昨年6月25日、第1原発所長に就任。大事故が「第2のふるさと」という福島で起きたやりきれなさ。そして、震災後の対応による疲労がピークに達 し、感情的になってしまったのかもしれない。

結局、7日未明になり、1号機への窒素注入は「新たな水素爆発をふせぐため」として敢行。この間、東電本社は本部で説明にあたっていた技術者を第1原発に派遣し、吉田所長を説得、予定された作業は本部の指示通りに実施された。

1~3号機の制圧に手間取るなか、4号機でも燃料損傷とみられる現象が起こった。また、経産省の原子力安全・保安院は14日までに相次ぐ余震を受け、原子炉建屋の耐震補強工事を行うよう東電に指示。現場は、また新たな作業に追われることになる。

以 前福島原発の構造図を掲載しましたが、東京電力はその圧力容器内部に窒素ガスを注入し始めました。各報道機関ではその危険性に付いて余り語られていません が、窒素を入れるということは、圧力容器内部の圧力が上昇しますので、何時か(多分今でも)汚染された気体を外部に流失させることになります。また何故格 納容器内部に水素が発生したのか、考えて見ました。

ジルコニウムが燃料被覆管に使われる理由の一つは管の中のウランが発する中性子をほとんど吸収せずに透過する性質があるからです。
もし中性子を吸収してしまう金属を管に使ってしまうと外に中性子が飛んでいかず、核反応が起こりません。
次にジルコニウムは比較的機械的に強く融点が高いので使われます。
一方、ジルコニウムのイオン化傾向はアルミニウムと亜鉛の間であり、結構酸化されやすいです。
しかしジルコニウムは表面に緻密な酸化膜、いわゆる不動態を形成するため内部までは酸化されにくいので大丈夫なのです。
今、冷却水から露出してしまった燃料集合体はとても熱くなって溶けだしてしまっています。
これを炉心溶融(メルトダウン)といいます。
メルトダウンしてしまった原子炉内には高温のジルコニウムと水蒸気が存在しこれが反応したと思われます。
高温ではジルコニウムは下の式で表される反応を起こします。

Zr + 2H2O → ZrO2 + 2H2

そして発生した水素は原子炉の圧力容器から放出され(又は漏れ出し)建屋に溜まったと考えられます。

「窒素注入」苦渋の決断、放射能放出の危険

福島原発

水素爆発を防ぐため、東京電力は福島第一原子力発電所1号機の原子炉格納容器に窒素を注入する作業を始めたが、注入によって高濃度の放射性物質を含む水蒸気が格納容器から漏れ出す危険性もある。

大きな事故を防ぐための手段とは言え、「苦渋の決断」が続く。

水素は、高温になった核燃料棒の被覆管(ジルコニウム)が水蒸気と反応して生成するほか水が放射線で酸素と水素に分解されてできる。原子炉内は燃料の一部 が露出したままで放射線量も高く、水素は生成し続けている。外側の格納容器にたまった水素の濃度は現在1・5%になっている。

水素の濃 度が4%以上になると、酸素と反応して爆発を起こす危険性がある。同原発でも先月12、14日に1、3号機で相次いで水素爆発が起きた。いずれも原子炉建 屋での爆発だったが、もし格納容器で爆発が起きれば、原子炉も損傷して大量の放射性物質が拡散する最悪の事態になりかねない。

今回の注入は、反応性が低く安定な窒素で、水素と酸素の濃度を薄めて、爆発を避けるのが狙いだ。

しかし、1〜3号機の格納容器の圧力は低下しており、隙間があいている可能性が高い。実際に、原子炉内から漏れたたまり水も見つかっている。

東電は格納容器の圧力や放射線量を監視しながら、格納容器の体積とほぼ同じ6000立方メートルの窒素を注入するとしているが、放射性物質を含む水蒸気が、押し出されるように放出される危険は避けられない。

「気密性が完全ではなく、放射性物質が漏れる可能性はあるが、より大きな事故を防ぐために必要な措置」。東電の松本純一原子力・立地本部長代理は理解を求 めた。東電は、1号機に続き、2、3号機でも窒素注入を行う予定だが、両号機の格納容器の圧力はほぼ大気圧にまで下がっており、注入で放射性物質が漏れ出 す危険性は1号機よりも高い。

(2011年4月7日08時16分 読売新聞)

「『安全です』と言いながら事故を起こしてしまった」と、所長は深々と頭を下げたが、投げかけられた言葉に耳を疑った。<<<水素爆発を知らない>>>

「大丈夫です。もう隊長も復帰しました。最後はわれわれが必ず助けます」

責められ、罵倒される覚悟だった所長の目からぽろぽろと涙がこぼれた。

<<メルトダウン事故対応専門チームもいない政府の原発政策?炉心工学の教授達はなにをしてたのだろう?現場運転所長に全部押し付け?>>

支え合わなければ、この国難を乗り越えることはできない。街から灯りが消えたが、東電関係者の心の内も暗闇に違いない。そんな中では「人の真心」だけが唯一の灯だ。批判されながらも、命令一下、現場で汗を流してきた自衛官には、それがよく分かっていた。

自衛隊消防隊などはすでに帰隊している。しかし、今も福島では自衛隊による除染作業など、必死の活動が続いている。

国防担う掃海部隊 節目の20年「先輩に恩返しを」

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.17

近年、海上自衛隊の新隊員が、艦艇に乗りたがらないという。

航空機の人気は高いが、「キツイ、キケン、カエレナイ」の3K!? だといわれる船乗りを希望したがらないのだ。

「台風が来たら、普通のお父さんは帰ってきますが、自衛隊のお父さんは出ていくんですよ」

確かに、ある海自隊員の妻は、よく嘆いていた。

その海自艦艇、近年はインド洋やソマリア沖など、海外で活動する機会も増え、国際貢献という形で国防を担っている。国際的評価は高く、それが隊員たちの平素の不満を拭い、大いに励みになっている。

先がけとなったのが、今から20年前の掃海部隊によるペルシャ湾派遣だった。何しろ、初めての自衛隊海外派遣で、出港の日までドタバタの大騒ぎだった。

そのため、航空基地に着任した歓迎会の席で、掃海隊群司令部への異動命令を受け、急きょ、送別会になってしまったとか、数日前にいきなり派遣を命じられた者など、当事者やその家族にとっては、心の準備も何もなかった。

しかし、掃海艇という小さな木造船が、はるか中東の海まで赴き、厳しい環境下で任務を見事に全うし帰国したことは、海自にとって大きな自信となった。

また、自分で自分の国のシーレーンを守るために努力する姿勢は、外国から一人前の国家として認められることになった。掃海部隊は、それを身をもって実行したのだ。

その海自にとっても、日本にとっても大きな一歩を踏み出した日である4月26日を迎えるにあたり、福本出掃海隊群司令はいろいろと思いを巡らせていた。

今年は20年の節目である。そのタイミングにこの職に就いたことは、自身が世話になった掃海部隊のために、誇るべき航跡を残してくれた先輩たちのために、「何か然るべき恩返しをするため」と考えていたのだ。

3月11日午後、掃海隊群の所在する横須賀の海は穏やかだった。20年前、補給艦「ときわ」掃海艇「さくしま」「あわしま」がここから旅立ったが、海は当時と何も変わらないように見える。

その晩は、すでに引退したペルシャ湾経験者の先輩に会い、節目の企画について意見を仰ぐことになっていた。同行する幕僚は地方に出張中で、すでに新幹線に乗車した旨、連絡があった。

「夜までには間に合うな」−そう言って電話を切った。その時、グラッという大きな震動が庁舎を襲った。

行方不明者捜索に「EOD(爆発物処理(Explosive Ordnance Disposal)海上自衛隊の水中処分員)を集めよう」 海のエリート集団

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.18

 「これは大変なことになりそうだ…」

福本掃海隊群司令は直感し、即座に造船所で修理中の掃海母艦「うらが」などの安否を確認した。無事が分かりホッとしたのもつかの間、各地に大津波警報が発令されたことを知る。

「『やえやま』は出港!」

横須賀には掃海艦「やえやま」が在泊していたのだ。岸壁に係留していると津波に襲われる危険があるため、沖合に出すのである。「自衛隊のお父さんは台風が来ると出ていく」のはこのためだ。

それにしても、幕僚長など主要な参謀が出張で不在だったことは痛手だった。しかし、残っていた幕僚たちを見ると、先輩の代わりを務めようと必死になって、それぞれの役割を果たしている。

後進は着実に育っていることを、思いがけず知ることになった。

「まずは状況把握!」

情報収集と海上自衛隊の災害派遣態勢の動きをつかむために、群司令も同じ横須賀に所在する自衛艦隊司令部内の作戦室に入った。掃海部隊の、いや、自衛隊の総力をあげて災害対処にあたる必要がある。その場の思いは皆、同じだった。

「EODを集めよう」

掃海部隊に所属する水中処分員のことだ。爆発物を処理する海のエリート集団である。

奥尻島津波時の災害派遣の教訓から、行方不明者の捜索に不可欠と判断した。各地に所在するEODとゴムボートを、横須賀に集結させる調整を開始する。

掃海部隊は、機雷除去のみならず災害派遣での出動も数多い。そのため、助言をする人材には事欠かず、決断は早かった。

「『ぶんご』を引き返えさせよう!」

全国から掃海艇やEODを東北に集結させるにあたり、掃海母艦の存在は不可欠だ。しかし、2隻ある掃海母艦のうち「うらが」はドックに入っていて動けな い。そのため、シンガポールでの訓練に向かっていた「ぶんご」と掃海艦「はちじょう」掃海艇「みやじま」の訓練参加取りやめが決定された。

「『ぶんご』横須賀到着は13日夕刻予定」

報告を受けると、それに合わせ、支援物資や必要機材の準備に当たり、群司令以下、全員が司令部に泊まり込みで指揮を執った。

そして13日、予定どおり「ぶんご」が入港。

「出港は2100!」

直ちに救援物資を搭載し全国から集まったEODが次々に乗艦。騒然とする中、海の精鋭たちの表情はいたって冷静だった。

“海の工兵”EOD、事態は一刻を争うが「まず調査だ」

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.19

 爆発物を処理する海のエリート集団、EOD(水中処分員)。これまで船舶の衝突事故、海に墜落した航空機事故、河川の氾濫の行方不明者捜索など、数多くの経験があり、何ができて、何ができないかについて熟知していた。

普段、機雷と向き合う厳しい訓練をこなしているからこその実力だ。

しかし、被災現場に着くと、これまでの経験を超えた惨状がそこにあった。「瓦礫」と、ひと言で言えば詮無いが、そこには数日前までの人間の暮らしそのものがむなしく浮いていた。辺りには油の臭いが漂い、汁粉のように濁った海では視界の確保は到底できない。

「まずは調査だ」と、群司令はEODをすぐには潜らせなかった。

日本の近海は、真夏でも潜れば極寒の世界で体力・気力の消耗は激しい。まして冬は、歯の根も合わなくなる程で、判断力も著しく奪われる。まずは状況を把握することが必要と判断したのだ。

ただ、事態は一刻を争い、焦りもあった。

「早くしなければ、生存者を救助できない」

そんな声も聞こえてきた。しかし、ここで判断を見誤り、二次被害を出してしまっては、捜索活動が立ち行かなくなるだろう。

そういえば、ペルシャ湾派遣の時も「すぐにとりかかれ」という中央からの指示に、現場指揮官は苦悩したらしいが、同じ境遇になるとその気持ちがよく分かる。そして、今にでも飛び込んで捜索を始めたい思いは、現場のEODたちが最も強かった。

ジリジリとしながら待ち、とうとう命令が下る。EODが混濁の海に入っていった。

「ロープがプロペラに絡みついて、航行不能になっている艦艇があるようです!」

その時、報告が入った。しかも1隻や2隻ではない。次は自分たちの艦もやられるかもしれない。警戒しながら、他の艦艇を助けるため、やはりEODが解策作業に駆けつける。

水上からの捜索も厳しい条件だった。各艦艇では雪で白くなった甲板上で目を皿のようにして探している。シンガポールに向かうはずの隊員たちの服装は夏用で、震えながらの作業であったが、不満を口にするものはなかった。

「前方に浮遊物! ご遺体と思われる」

緊張が走った。初めて遺体を見る隊員も少なくない。覚悟はしていたが、これから幾度となくこの現実と対峙しなければならないのだ。

リブ(ボート)のEODが慎重に引き揚げた遺体は女性のようだった。

■さくらばやし・みさ 1970年、東京生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウ ンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防 衛・安全保障問題を取材・執筆。震災後、防衛省に加え、被災地を何度も取材した。著書に「海をひらく−知られざる掃海部隊」「誰も語らなかった防衛産 業」(並木書房)、「終わらないラブレター−祖父母たちが語る『もうひとつの戦争体験』」(PHP研究所)など。

掃海艦 MSO-301〝 やえやま 〟

予行1の入港です。


掃海艦 MSO-301〝 やえやま 〟(横須賀)

見た目じゃわかりませんが。

船体は木造だそうな。。。

ちょっと乗ってみたいです♪

2010年11月18日(木)宮崎県日南市油津港にて
平成22年度機雷戦訓練・掃海特別訓練・潜水訓練(time trial 1118backride)
海上自衛隊掃海隊群第51掃海隊 掃海艦「つしま」さん、「やえやま」さんの皆様(横須賀)

少し下がってみても…掃海艦さん艦首地点、背がお高いので、着岸の様子があまり見えない のです。艦首地点を記録するには、とても良い角度なのですが。迫力があって。「やえやま」さんと「つしま」さんを繋ぐ艦首地点のロープ、ぴんと張っていま すね。「やえやま」さん、ご到着です。間に合いました…今回は。7月大湊での失敗を「リカバリー」です。続いて、第46掃海隊・掃海艇「あおしま」さんが 入港され、第51掃海隊しんがり掃海艦「はちじょう」さん入港となります。

呉より掃海艇「あいしま」さんは、補給艦「おうみ」さん→物資補給の様子、

佐世保より掃海艇「ひらしま」さんは、燃料及び真水補給の様子、

横須賀より掃海艇「つのしま」さんは、燃料補給の様子、補給艦さんがたの「黒いホース」は、「蛇管」と呼ばれるのですね。

下 関より掃海艇「とよしま」さんは、補給完了、「おうみ」さんを離れてゆかれます。東日本大震災発災直後より、ほぼ被災地にいらっしゃる掃海部隊の皆様。そ の約1ヶ月の間、数日、横須賀に戻られてもいますが、ほぼ、被災地で活動を続けられています。掃海部隊の皆様は、どのようにしていらっしゃるのでしょう… と、日々思いを巡らせていました。自衛艦隊さんの「ニュース」には写真がありますので、数cutずつであっても、ご活動の様子を知る事が出来ます。テレビ や新聞等の報道が徐々に少なくなりつつありますが、防衛省さんsite、海上自衛隊さんsite、自衛艦隊さ んsiteを日々確認する事で、今も懸命の捜索救難救援支援活動なさっている皆様のご様子を知る事が出来ます。本日(18日)の「ニュース→オペレーショ ン」では、掃海艦「やえやま」さんEOD員の皆様の捜索活動が伝えられていました。引きの写真ではありますが、お一人お一人、どなたであるかが判ります。 明確に。転載させて戴きます。

岩手県大船渡湾において、掃海艦「やえやま」乗員が実施している、行方不明者の方々の捜索活動の模様です。

下の写真から分かるように、大船渡湾には現在も、津波によって流されたカキ筏や建材などのがれきが多く残されており、隊員は、それらのひとつひとつを丹念に確認して、行方不明者の方々の捜索にあたっています。

自衛艦隊さ んsiteの「ニュース→オペレーション」から、「やえやま」さんEOD員の皆様が宮城県・岩手県境の広田湾、宮城県名取市の閖上漁港、岩手県の大船渡湾 にて行方不明の方々の捜索をされている事が判りました。新聞の記事では、閖上漁港の捜索は大変難しいと書かれていました。現在も懸命の捜索が続けられてい る全ての地点が大変難しい筈です。

掃海艦「やえやま」さん、「つしま」さんEOD員の皆様。こうして、笑顔で横須賀の吾妻島前に戻って来られる日まで、懸命に続けられる捜索活動の事を忘れてはなりません。忘れる訳がないのですが。忘れ方が判りません。

3月10日。東日本大震災=東北地方太平洋沖地震発生前日まで訓練なさっていたのは、掃海艦「やえやま」さん杉山艦長EODチームの皆様・掃海艇「のとじま」さんEOD員の皆様、横須賀警備隊「Y-EOD」の皆様でした。

大震災前日、横須賀本港岸壁付近で訓練なさっていた横須賀警備隊「Y-EOD」の皆様。訓練は、大震災発生直前まで続けられていました。

掃 海艦「やえやま」さん、「つしま」さん、「はちじょう」さんEOD員の皆様。ほぼ、全ての方々が被災地にて捜索活動を続けられています。勿論、掃海部隊に は、EOD員の方々が大勢いらっしゃいます。総勢何名のEOD員・飽和潜水員の方々が捜索活動を続けておられるのか、まだ判っていません。先週、フジテレ ビさんの早朝の番組にて、掃海隊群司令部EOD班の皆様の映像を拝見しました。録画出来ず、詳細に再現出来ないのですが…。「災害派遣」にて被災地に向か われている全ての皆様のご無事を祈り、お一人でも行方不明の方々がご家族のもとへ戻られるよう、日々祈り続けております。

【4月18日午前6時現在】海上自衛隊さんサイトより 「輸送等の支援活動」
救援物資の輸送状況 艦艇・航空機による輸送回数 約10,050回


糧 食:約23万4千食


飲料水:約40万リットル(清涼飲料水含まず)


毛 布:約1万3千枚


ガソリン・軽油:約6万リットル
灯 油:約9万2千リットル


乾電池:約6万5千本


その他:衛生用品、生活用品等


各自治体等からの依頼物品を含む
(各数値は速報値であるそうですので、変更となる場合もあるそうです)

各艦艇に乗艦する移動衛生班の診療実績


移動衛生班:4個班


歯科班:1個班


診療及び健康診断の実績:累計2,450名


(現在、宮城県東松島市の宮戸島・宮城県塩竈市浦戸諸島4島などの離島へ巡回診療を実施中だそうです)


この他、入港した艦艇乗員など、隊員の方々へのメンタルヘルスケアを実施されているそうです

避難住民支援(八戸航空基地)※3月11〜4月15日までの間


宿泊支援:累計6,000名


診療支援(メンタルヘルスケアを含む):約1,300名


災害瓦礫の集積・撤収・搬送作業
延べ人員:約320名 災害瓦礫:10tダンプカー約420台分搬送


その他


入浴支援・小学校への通学支援(青森県八戸市)等実施されているそうです


沿岸及び離島の孤立地域に対する支援


海上自衛隊さんでは、震災のため陸路から孤立した地域や離島に対して、医療や物資の輸送など生活支援を実施中であるそうです。


特に、気仙沼大島、浦戸4島の桂島・野々島・朴島・寒風沢島、宮古島(宮城県東松島市の宮戸島でしょうか)は、一部生活インフラの整備が未だ不十分な地域もあり、引き続き支援を実施しているそうです。


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